そうだ、四国へ行こう
 
 現実逃避のために四国へ行きたい。どれだけその思いが強いのか分からないが、行きたい。

 自分を見つめ直すためとか、そんなかっこ良いことはなにもない。現状から逃げるためにどこかへ行きたい。逃げることで現状を回避できるわけではない。ただ、行ってみたいと思ったからだ。それを客観的に見れば単なる現実逃避に他ならない。

 では、なぜ四国なのか?それもなんとなくだ。お遍路をしたいとはあまり思わないがそれに沿って歩くことによって目標が出来る。緩慢なのが嫌いなのだ。

 四国であれば遍路だと言えばおかしくないかもしれない。若い男が昼間からプラプラしていたら職務質問に会ってしまうかもしれない。しかし、遍路だと言えばそれで済んでしまう、そんな気がするのだ。野宿も大丈夫そうな気がする。私は、迷惑をかけるつもりは一切無い。そんな、風土があるなら本当に心から感謝すると思う。

 遍路では、お金払って判を押してもらうらしい。なんと言うのか知らないがお金を払うのがかなり納得がいかない。宗教に興味が無い私には無縁だ。飛躍するが死んだときにお寺は嫌だなと思う。宗教と習慣は違う。

 話がそれたが、その判子をもらったらどうなのか。自慢できるかもしれないが、無くても相手を説き伏せれば無くても全然OKだ。対外的に判子が欲しいならそれは修行ではないと思う。私の価値観であって、宗教的な価値観は全く分からない。勉強したことが無いし、遍路とは何経?なのか全く分からない。歴史(暗記)は苦手なので知らない。ただ、自分の価値観の元、歩くことを決めたのならそれに沿うのが私の趣向だ。他人の影響を受けたのならそれはそれで従うまでだがなんとなく嫌なものはたぶん嫌なのだ。判子は形でしかない。そんなものにこだわる必要は無い。無くてもその人の話しぶりから、「あぁ、この人は本当に遍路に行ったのだな」と感じさせさえすれば納得してもらえるだろう。形が必要ならその辺で売っていそうな気がするのでそれを買ってきて遍路行かないで自慢すれば良いだろう。結局、納得のいかないものにこだわるのは無意味である。

 もちろん、お金がかかわるからこだわるわけだ。無料ならもちろん押してもらうだろう。いくらか知らないが400円くらいだったら88ヵ所で35200円も必要になる。かなり、高価な大人の遊びだ。宿泊料やその他を入れると莫大なお金となるだろう。

 修行とはかっこ良い響きだが、自己満足に終始している人が多いのだと思う。それさえも感じずにひたすら修行をすると言うのが私の中の遍路感だ。だから、私が四国を回ったとしても遍路ではない。遍路のまねをしたいんちき遍路だ。遍路マニアか。遍路をする人をどう呼ぶか分からないが、私は修行者ではない。自己に自惚れるただの暇人だ。そこをはっきりさせておきたい。

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